大阪視覚障害者の生活を守る会
(DAISIKAI) 【 こぶし 】400号記念号
握りこぶしも高らかに、咲かせようこぶし(友愛)の花を![]()
主な内容
短歌 400号記念
こぶし今昔「こぶし」と私
私と大視会
ネズミ一匹、大山動かす
メーリングリストが機関紙に
なんとも川柳
黒田知事へのインタビュー
私のセカンドライフ
誰もが使えるQRコードに
雑考
握りこぶしから花へ
編集後記
メールはこちら
ご意見、ご感想などございましたら、
お気軽にメールをお送りください。
400号記念
北支部 藤野 高明
短歌
モルダウの 流れを映す 交響詩
大河となりて 海間近金管の 咆哮やまず 弦うねり
マーラーの「巨人」 終演近し早春の サンサーンスの シンフォニー
荘厳に鳴る パイプオルガンブラームスの 交響曲 第3番
3楽章が 好きだった妻式終えて みんな帰った 盲学校
遠いソプラノ 早春譜目次へ バックナンバーへ 大視会トップページへ
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こぶし今昔
「こぶし」と私
大阪市支部 津野 幸治
1 その名の由来
古い会員の中には、或いはご存知の方もあろうかと思いますが、「これは僕たちの機関誌の名前―『がんばろう』の歌詞から取った―鉄(くろがね)の男、燃え上がる女の拳がある―のこぶしなんや」と初期の会報作りに関っていた保田武士君が誇らしげに言っていたのを思い出します。
高1の頃、彼は「先生共産党をどう思いますか?」と未だ西も東も分からぬ無辜の私を驚かしたユニークな兵(つわもの)の一人でした。2 不朽の傑作―山之内町府盲怪談
あれは、ご存知、山崎正平君がまだ専攻科の生徒だった頃でしたから、たぶん1970年代の初め、おそらく「こぶし」が月刊になる大分前の事です。
私は、やはり彼の保田君等に引っ張り出されて、紅一点のMYちゃんに「お父さん」などと呼ばれながら、やに下がって、編集会議に連なっていました。
そんな中で、事の次第は定かではありませんが、おおかた、集まらぬ記事の埋め草に私が書いた上記の駄文が、「物語」のモデルとおぼしき諸君にだけちょい受けしたのも懐かしい思い出の一コマです。
ちなみにフィクションの筋立ては、フリーダムでおなじみの原田義雄君が寄宿舎の運動会の棒倒しにかこつけて、当時はばをきかしていた悪(わる)のF一派に「殴られた」噂を題材に、「正義」の革新派追い出しに暗躍する保守派との抗争を田中・福田、不破・松本等の名を借りて描いた、戯い(たわい)もないものでした。3 年寄の自慢話
私が最も深く「こぶし」と関ったのは、いつの頃だったか、千田事務局長の孤軍奮闘を見兼ねて編集の手伝いをするようになって、92年9月に稲村編集長の下で200号の記念特集作りに携わった時まででした。
何分、今と違って、原稿・校正ゲラ・最終データと一切合切がマン・ツー・マンの手渡しするしかなく、堺ろう学校の萬木(ゆるぎ)先生と電話でデートしてから活字は正平君、点字は点民社にデータを届けるまですべて足に頼るしかない時代でした。
そんな中で、「明日を開く、大視会の歩み」、「こぶしのひろば」など今も受け継いでもらっている欄のネーミングに無い知恵を絞ったなんて、誰も知らない自慢話をする年寄は私も嫌いです。4 そして、ドットコム、400号までお付き合いできるとは!!
17年前、200号の記念特集号『思い出綴り』の仕事をしながら、定年まで3年を残して退職した私は、漠然と今後何号まで「こぶし」を見守っていけるだろうかと思いました。
それが、倍の400号を目の前にしてこの雑文を書いているのです。300記念特集号(2001年1月)の後記はこのように綴られています。「・・・いよいよ21世紀の幕開けです。
いやいや、30世紀を目指しての壮大な新たな千年期の幕開けと言うべきでしょうか」
「誰かが最初から仕組んだとしても、これほどまでグッドタイミングにお膳立てはできないと思うのですが、我らが『こぶし』は300号を迎えることになりました」
「ここまで来るのに40年という時を必要としました。
この間、多くの人の熱意に支えられて、発行が継続されてきました。(中略)
編集段階の最終盤の時、あろうことか筆者が急遽入院することになりました。
スタッフも慌てたと思 います。
筆者も慌てました。
そんな折、編集スタッフの一員だった今は亡き仲谷政彦君が、代わって編集作業を引き継いでくれ、欠号を出さずに済みました。
『1号たりとも欠号は出すまい』の思いが、この300号までの一つ一つの中に語られていると思うのです」折しも、現編集長・ドットコムの片腕・キヌさんが入院という不測の事態です。
そう、予想もつかなかったIT技術の進歩のお陰で、編集作業の各段階は便利(楽)になりました。
反面、それゆえに起こる安直さ(かけこみ投稿や校正ミスなど)の弊害にも充分意を注がねばならぬことは、言うまでもないことです。
かく申す私自身は、ときおり、編集氏に乗せられて、愚にもつかぬ拙文で誌面を穢(けが)すぐらいのほか、何のお役にも立てぬ老境をかこつ身とあってはただ、恐縮この上もない次第ですが、「こぶし」ファンの末席に連なりながら次の500号に向けて末長い成長を願いつつ筆を置かせていただきます。目次へ バックナンバーへ 大視会トップページへ
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私と大視会
賛助会員 西尾 鈴子
初め大視会と守る会は別々のものと思っていました。
大視会は運動するところ、守る会は楽しいことをするところでもメンバーは同じ??、永い間の疑問でした。
そして、行事があるたびに新しい発見があり、徐々に守る会のことを理解していったように思います。
この会の素晴らしいところは、平和を守ることを基礎としているところ、そして、何よりみんな底抜けに明るく楽しいし、仲間を気遣う優しさがいっぱいあってとても温かいです。
守る会の人たちと出会ったことは、私の人生に確実に幅広く豊にしてくれています。目次へ バックナンバーへ 大視会トップページへ
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ネズミ一匹、大山動かす
大阪市支部 亀甲 孝一
「こぶし」400号おめでとうございます。
編集を担当していただいている衣笠さんや小牟田さんをはじめ、毎月の発送作業に関わっていただいている事務局の皆さん、ありがとうございます。
400号を節目に500号、600号へと皆さんのご苦労はまだまだ続くと思いますが、これからもよろしくお願いします。
さて、改めて考えてみると、私にとって「こぶし」は、大事なときの伝書鳩のような存在であったように思います。
支部長として書かなければならない支部会の案内や大阪市交渉の要求項目をお知らせするなど、最小限必要な情報を皆さんにお伝えするのに大きな役割を果たしてくれています。
この「こぶし」という何とも頑固そうな名称の会報ですが、400号に至る各号には私たちの願いや要求が毎回のように語られてきました。
遅々として進まない行政の対応に怒ったり、ささやかな願いが実って喜び合ったり、「こぶし」を通して共感し合いながら私たちはいっしょに活動を進めてきました。
そんな運動のひとつに地下鉄ホームへの可動柵設置を求める活動がありましたが、これを大阪市交渉の要求項目に掲げてから何年が経過したのでしょうか。
不確かですが10数年来の要求だったと記憶しています。そして、この要求が実現に向け大きく動いたのは、やはり5年前にスタートした【大阪市営地下鉄ホームに可動柵設置を求める大阪市議会への陳情署名】行動が大きな力になったんだろうと思います。
署名活動を開始して1年後の「こぶし」3月号で千田さんは、
「最近発表された報告によると、過去10年間に地下鉄全線で起きているホーム転落事故は370件にも及んでいるとのこと。
その中での大半が酩酊者でもあるとのことですが、このようにホーム転落は私たち視覚障害者だけでなく、誰にでも言えることなのです。
そのようなことを考えると、より広範な人に署名の協力を訴えることができると思います」
として、もう一周り署名への協力を呼びかけられていました。この時点での署名数は約3000でしたが、目標5000をめざして署名活動はその後1年継続することになりました。
そのさなかの2005年12月の「こぶし」で私は11月に実施された大阪市交渉の報告のなかで、
「地下鉄ホーム上に可動柵の設置を求める要求でも、昨年と今年では、かなり回答の中身が変わってきました。
堺筋線天下茶屋駅ホームへの固定柵の試験設置に見られるように交通局も何らかの対応策が必要だという認識を持ったことは確かなようです。
最終的に可動柵になるのか固定柵になるのか、予断はできませんが、各地での可動柵設置が追い風になっていることだけは明らかです。
昨年来の陳情署名と連動して、ここ1、2年の内には何とか目処を立てたいですね」
と書きましたが、その後の展開は私の予感以上でした。2006年5月、大阪市議会に陳情署名を提出して以降の展開は、まさに急転直下でした。
同年12月には、すでに可動柵の設置が約束されていた新設路線の「今里筋線」が開通しましたが、その直前に実施された見学会で初めて可動柵に触れたときは感動しました。そして、2007年の「こぶし」3月号の大阪市交渉の報告では、
「まず、今回の交渉の最大の成果は、視覚障害者のみならずホームからの転落防止を願う多くの市民にとっての悲願ともいえる地下鉄既設路線への可動式ホーム柵の設置に向け、その手始めとして長堀鶴見緑地線の車両改造費が来年度予算に計上されることが明らかになったことです。
これは大視会の長年の運動、特に昨年5月、大阪市議会に提出した五千名を越える【地下鉄ホームへの可動柵設置を求める陳情署名】が大きな力になったことは明らかです。
改めて署名集めに奔走された皆さんにお礼を申し上げます」
と書きましたが、この要求も昨年度の大阪市交渉で山を越えました。今年2月の「こぶし」で私は次のように書きました。
まず、毎年の大阪市交渉で、重点要求と位置付けていた地下鉄駅ホームへの可動柵設置について、昨年度の長堀鶴見緑地線に続き、今年度の大阪市からの文書回答では、千日前線への設置が方向づけられたものの、その他の路線については、
「導入が可能な路線から順次整備してまいりたいと考えております」
との見解にとどまっていました。
しかし、本交渉の直前1月14日、
「御堂筋線全20駅に転落防止柵・大阪市が来年度調査費」
という「朝日夕刊」の大ニュースが飛び込んできました。何十年も先の話と誰もが思っていた御堂筋線への可動柵の設置がほぼ確定したことになります。
おそらく来年度以降、大阪市交渉への「地下鉄駅ホームの可動柵設置」の要求項目は消えることになると思います。
要求項目から消えるかどうかはともかく、「大山鳴動、ネズミ一匹」という言葉がありますが、私はこれをもじって、大視会というネズミが大阪市という大山を大きく揺り動かした、まさに「ネズミ一匹、大山動かす」、その瞬間を「こぶし」でお知らせできたことを誇らしく思います。新年度を迎え大ニュースがもう一つ飛び込んできました。
JR西日本が、大阪環状線や東西線、京都線などを走る普通電車のドア内側に車両位置の点字表示を開始しました。表示位置が地下鉄とは微妙に異なるなど、問題点もありますが、これも大山が揺れ動いた1例として、素直に皆さんとともに喜び合いたいと思います。
大視会の真骨頂は何と言っても「要求活動」です。
そしてその活動を素早くリアルに伝える媒体として、「こぶし」が今後も大きな役割を発揮してくれることを願っています。目次へ バックナンバーへ 大視会トップページへ
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メーリングリストが将来の機関誌に
会長 堀部 光雄
皆さんとともにこの「400号」の達成を喜び合いたいと思います。
最近この「こぶし」にあまり書く機会がなくなりましたが、以前は編集スタッフの御輿に担がれて「活動報告」などをよく書きました。
それに、100号・200号・300号といった節目にもそれぞれコメントを書いたように思います。
でもそれらはすべて御輿の担ぎ手が企画したもので、わたしはただその上で踊っていました。
ですからこの「こぶし」の編集・発行ではあまり「ハラハラ・ドキドキ」といった経験や苦労をしていないのです。手元に資料がなく思いつくままに書きますと、この「こぶし」が毎月発行になったのは今から30年くらい前、つまり1979年あたり「こぶし」40号といったところではなかったでしょうか。
最初に「こぶし」が発行されたのは1965・6年頃だと思いますので、40号までに13・4年の年月を要したことになります。近頃パソコンのおかげで、文章が気軽に書けるようになり、編集もうんと楽になりました。
でもそれ故に、味わいのある文章が影を潜めてきたように思います。
言うまでもなく機関誌の役割は、会員に正確な情報がより早く届くこと、会員一人ひとりの様子や思いが双方向で伝え合えること、そんな機関誌になってくれることを願っています。それを果たしてくれるのがメーリングリストではないでしょうか。
近頃のパソコンの普及は目覚しく、視覚障害者の中にも自由に使いこなす人が増えています。
それに携帯電話はもっと普及しており、この3月の推計では、1億812万人もの契約者がいるそうです。
この「こぶし」も今しばらくは、点字・活字・テープの三つの媒体で発行されますが、将来的にはパソコンや携帯電話で読んだり書いたりできるメーリングリストに改称できればと思います。そのためには、今のように自由に書くだけでなく、テーマを決めて意見を出し合ったり、原稿依頼したりするコーディネーターの配置が必要になります。
そんなペーパーレス機関誌の時代がやってくると思うのですが。目次へ バックナンバーへ 大視会トップページへ
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なんとも川柳
苅田 臼太郎 (小牟田 勇)
古女房 共に白髪の 恋女房
かいだんよ つなぐ孫の手 目尻下げ
子をさとす 息子の背中 にんまりと
給付金 ちゃんと拭けるの 旧ふきん
ヘルパーと 歩く便利さ 我いずこ
声挙げて 幾多のいのち 可動柵
一歩ずつ 皆の足跡 こぶし咲く
生き生きと こぶしのページ 我もまた
明日開く ボケとつっこみ 大視会
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私が覚えているのは
黒田知事へのインタビュー
堺支部 千田 勝夫
一口に400号、本当によく続いたものだと思います。
私が24歳9ヶ月で事務局次長をさせていただいた時、最初の仕事が「こぶし」の編集だったように思います。1975年4月、大阪は黒田知事革新府政2期目を実現させた時でした。
なんと、その時、黒田知事へのインタビューが実現したのでした。私が若気の至りで好き勝手なことを言ってしまいました。
「革新府政2期目だから黒田知事へのインタビュー記事を『こぶし』に載せたいなぁ!」とね!ところが、それが西岡先生や障連協の役員の皆さんのご尽力で実現したのです。
その時は本当に嬉しさで一杯でした。
ところが、その時どのようなことを質問し、黒田知事はどう答えてくださったのか、肝心なことが全く思い出せないのです。
あの時の「こぶし」があれば少しは分かるのですが、なんて夢みたいなことを言っています。
でも、それがきっかけで、今も点訳作業をお手伝いさせていただいています。みんなの強い願い「月間化」が実現したのは1983年4月号(87号)(これを思い出すにも指を折りながら数えています。)からですから26年続いています。
しかも点字・活字・テープ、今ではデーター版まで、これから先も500号に向けてみんなで力を合わせてがんばりましょう!目次へ バックナンバーへ 大視会トップページへ
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私のセカンドライフ
ー出会いに感謝、夢へカウントダウンー
北支部 藤本 勲
1 はじめに
こぶし400号発行おめでとうございます。
そして、この私は4月で50歳を迎えました。
また、大阪に来て26年が過ぎました。
現在勤めている市立盲学校も単純に数えると後10年となりました。
今回、記念号への文章をということで、やや気は早いのですが私のセカンドライフをテーマに投稿します。
結論から言うと、鍼灸師として開業したいと考えています。さて私は、学校での生徒への臨床実習の指導に15年前位から関わり、同僚の治療法に学びながら、数年は現代医学的な診察と治療を指導しました。しかし、満足の得られる指導ができていないなあと思うことが多くなり、
「いつか自分なりのもっといい診断と治療ができたらなあ」
と思うようになり数年が過ぎ、2年間は臨床実習から離れていました。
そして、7年前から再び臨床実習に関わるようになりました。
と同時に、これ以降2人の鍼灸師との出会いがあり、私の臨床実習のみならず臨床そのものに対する自信と将来への夢が広がってきました。2 全盲の経絡治療家・塩見先生との出会い
経絡治療とは、人の身体の調子が悪い時には身体をめぐる経絡にも変動が起こり、その変動を脈診・腹診等によって診断(証を立てる)、それに基づき鍼灸治療を行うものです。
この際、治療効果も同様に評価します。
塩見先生との出会いは、6年前の夏、日本気鍼法学会の京都研修会へ友人に教えられて参加した時でした。
それまでの私は、「経絡治療は評価するが、脈診は苦手」と避けて通って来ました。
しかし、先生を中心にした講師陣による指導を受ける中で
「この経絡治療ならやり甲斐がある」
と再認識したことを思い出します。
具体的には、
@脈診がより身近になる指導を行っている。
A皮膚鍼・散鍼、骨盤調整鍼等、本治法(原因療法)を補う標治法(対症療法)の追試と伝承に取り組んでいる。
B陰陽理論に基づく食養生も重視している。
ことでした。
私は、この研修会以降、京都支部に聴講生として参加し研修を続けています。
とは言っても経絡治療は奥深く、「ローマは一日にしてならず」の心境です。
仲間の力も借りながら取り組んでいる中で、脈診が少しではあるができるようになったり、独自の標治法を使えるようになり治療へ自信が持てるようになってきています。3 運動鍼の大塚先生との出会い
運動鍼とは、スポーツやレジャー等による筋肉や関節の疼痛を伴う疾患の治療を目的とした鍼治療法です。
大塚先生との出会いは3年前、全国の理療科教員有志の会が主催する京都研修会の事前研修で訪れた先生の治療院でした。
当日、一緒に行った教員で、五十肩症状で肩の運動制限のある人への治療をはじめ数人の治療を行ってくれました。まず患者の肩を動かし痛みのある部を確認します。
続いて人差し指に圧をかけながら最大圧痛部を探し、その部に対し人指し指の圧を緩めずに鍼を入れた鍼管をその横に立て、母指との間で挟みます。
最後に鍼の頭を撫でるように叩きます。いずれの症状もステンレス1寸1番の鍼でわずか数ミリの刺鍼を数カ所に行っただけで劇的な改善が見られました。
先生は、この日を含めその後も「この技術を身につけようと訪ねて来る人には教えるよ。
また新しい技術を産み出せばいい」
と言い、出し惜しむことなく教えてくれました。この後私は、本番の研修会や市立盲学校での講習会を通じ指導を受けることができました。
最近では、大阪興国高校でのサッカー選手への治療を生徒と一緒に見学させてもらい、治療を受けた選手が次々に練習に参加していく姿を見るにつけ、その治療効果に確信を深めました。4 夢の実現にむけて
こうして原稿を投稿できるのも「出会い」のお陰ですが、10年先のことを考えたところで絵に描いた餅かもしれません。
しかし、「出会い」を大切に今の気持を持ち続け、現実に向かっての歩みを進めていきたいと思います。
いつ頃、何処に、どんな治療院をなどのハード的なことは何にも考えていません。
経絡治療とスポーツ鍼灸治療をどう組み合わせていくのかもこれから検討していきたいと思います。今は何よりも臨床経験を重ねていきたいと思っています。
本会の中でもこうした治療法を共有する機会が持てればとも思っています。夢の実現に向けてカウントダウンです。
皆さんのアドバイスもお願い致します。
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誰もが使えるQRコードに!
女性部 山本 弘子
会報400号、おめでとうございます。
12カ月で割ってみると、33年と4カ月。
思い出してみると、会報の名前を何にするか?という話も聞いている私は、大阪に住むようになって40年以上になり、大阪は第2の故郷になりました。さて今日は元気に高齢期も過ごせたら?という思いで、チャレンジしている事を紹介します。
生活協同組合(コープ)に加入して丁度3月2週で30年になりましたが、コープのグループ活動の中で始めた話です。
グループ名 : 「さざ波」。
テーマ : 視覚障害者の情報収集のあり方。
目的 : 障害のあるなしに関わらず、同じ情報を共有できるようにする。
活動内容 : 点字の世界…かな文化から漢字文化へ…。
漢点字(8点)の普及。
視覚障害者には、携帯での読取訓練。
メーカーには、商品への表示化に向けての、デモンストレーション。
会員一同、QRコードの印刷や、読み取りやすくするための研究。ここでは特に、QRコード化の普及について、紹介します。
取り組み始めて、1年が過ぎました。
QRコードは、現在はHPに誘導するようになっていますが、これを商品名や調理法・賞味期限を印字してもらえれば、私たちにも、人の手を借りずに知る事もできるのです。
名刺に印字してあるQRコードを読み取れば、その中の電話番号に繋がることも分かりました。
病院の診察券は、これを利用しているのも、増えて来ているようです。
バス停にあるQRコードを読み取って、携帯のブックマークに入れておけば、何時でもバスの時刻とともに、大阪市バスなら、接近情報も知ることができます。読み取りには、訓練が必要ですが、さざ波としても、4回の「読み取り体験会」を行いました。
その結果、この1年で、読み取りに成功している人も増えて来ました。
印刷してあるコードの上に、透明なテープを貼ることで、場所は分かるようになりましたが、商品の何処にこのコードが付いているかというのも、今はばらつきがあり、ルールを作っていく必要があります。
コープ商品には、まだ少ないようですが、スーパーには、かなりQRコード付きの商品が出回って来ました。
私はガイドさんとスーパーを回っては、QRコードを携帯で読ませては、ブックマークに入れています。
しかし、一人で視覚障害者でも行くこともあろうかと思い、QRコード付きの商品の場合は、そのコードの上に、セロテープを貼ってもらえるように、あるスーパーではお願いして来ました。店長さんも快く応じてくださったのが、なによりもの救いでした。NTTドコモや富士通をはじめ、実践実証を続けている私たち大阪パルコープ「さざ波 」も入ってのワーキンググループを立ちあげるところまで進んで来ましたので、会報500号の頃には、QRコードが、誰でも使えるようになっていればという思いで、紹介してみました。
今よりは読み取りやすく、印字場所のルールも、決まって来ることでしょう。
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雑考
堺支部 平見 正爾
1冊数十ページのこぶしも400号ともなれば、その情報量や資料価値は膨大であると思います。
年々徐々に視力が下がっていく私にとっても大活字での熟読より得られる貴重な教材を教えてくださっている執筆者や編集者に感謝するものです。誰もが書物を読むときに癖があるように、私もこぶしが届くと、もう何年前頃からかまず目次を見て、続いて編集後記に目を通すのが楽しみになっています。
毎号限られた文字数の中に編者の巧みな言葉遣いや行間に見られる知識の深さに感心させられる事ばかりです。最近新米のじいじいになられたようで、お孫さんとのやりとりを読ませて貰いながら旧米のじいじいから一言「アッホー!」。
どうか永く永くわさびの効いた1行を続けてください。
最後に、春の宵に浮かれて一句
梅さくら 桃が咲いても 華は夢
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こぶし(握り拳)からこぶし(花)へ
松原支部 米山 哮
「こぶし」発刊400号、おめでとう。 情報誌の常とはいえ、普段は軽く受け止めているのに、やはり400号ともなるとさすがにその重みを感じずにはいられない。
単純計算でも33年余り、時には質を問われ、量を問われながら、顧みられることの少ないスタッフのご苦労に改めてねぎらいとお礼の言葉を贈りたい。
ところでこの「こぶし」だが、この表題については私なりにちょっとしたこだわりを持っている。
と言うのは、私が初めて本誌を手にしたとき、あれは確か80年代の中頃だったと思うが、どうしたわけか「こぶし」を花の辛夷(こぶし)と取り違え、長い間何の疑問も感じずにいたのに、それが間違いだったと知らされた時に、自分の思慮の無さを恥じると同時に軽い違和感を感じたことを覚えている。それはおそらく私の障害者としての自覚や権利意識の未熟さからきたものだろうし 、障害者がおかれていた当時の社会情勢を考えると「こぶし」はやはり握り拳だろう。
それは怒りであり、団結であり、闘いの象徴だったに違いない。と、今では納得しているのだが、それでも頭の片隅の脳細胞のいくつかがしつこくこぶし(花)に拘り続けているのはなぜなのか?
これを機会に考えてみた。
因みに私がこだわる辛夷の花とは一体どんな花なのか。
ここで簡単に紹介しておく。
辞書によると、辛夷とは木蓮科の高木で、ほぼ全国的に分布し、3月から5月にかけて開花する。
木の高さは約10メートル、花は直径10センチぐらいで白色。
蕾と種子の形が握り拳に似ているところからこぶしと呼ばれるようになった。花言葉は「友情、友愛」である。とりわけ東北地方ではこの花を「種まき桜」あるいは「田植え桜」と呼んで、農作業の目安にしているらしい。
余談になるが想像してほしい。青空に向かってぽってりとした白い花が裸木のこずえで群れている様を。
そして何よりも生活に根ざした暦としての存在感と待ちわびた春を迎え、労働と収穫の歓びを予感させるところが特に良い。
まあ、私のこぶし観はこれぐらいにして、話を本筋に戻そう。
結論から先に言うと、残念ながら今はまだ「こぶし」は握り拳でなければならないと思う。
なぜなら、現実社会を見れば答えはおのずから出てくるし、私のこぶし(花)は現実を一足飛びに飛び越えた願望の反映、障害者がこぶし(握り拳)を突き上げなくても安心してくらせる理想社会の幻想に過ぎない。エンゲルスは「空想から科学へ」の中で、理想社会は科学的視点に立った創造(行動)なくして実現はあり得ないと言っている。
空想はあくまでも空想なのだ。が、しかし私はやはり大輪の花開く未来社会を夢見ずにはおられない。こぶし(握り拳)がこぶし(花)になる日をめざしてもう一踏ん張りが必要だ。
「まだまだ若い者には・・・。ふうー!負けは・・・、ふー!・・・」、とにかくがんばろう。
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400号編集後記
編集部ドットコム ( 小牟田 勇 )
世紀越えから8年余、当たり前のように「こぶし」は400を迎えた。
80年代以降引き継がれている「一号たりとも…」の思いは現スタッフにより堅持されている。
誰もが持つ誕生の日、実は誰も知り得ない。
初めて歩いたことさえも覚えてはいないのである。
おそらくその数年は誰しも責任の範疇にない時期と言えようか。
親たちに守られて知識や生活力を与えられいつの頃からか、勝手に一人前になったように思っている。
生き方はさまざまでも、時間は永遠にあるように感じてきた。
こぶし300号を今読み返してみても人の変化に気がつく。
更に遡り84年5月100号、筆者も33歳、なんと活字印刷で手回しの輪転機に汗していたころである。
こぶしの成長とともに「仲間たち」も概ねいい年になった。
それこそ、ともに歩いて来た足跡と汗の分だけ自身の今の暮らしに実を結んでいる。
遅ればせながらにしろ、パソコンや携帯での活字の読み書きや情報の処理、電話一本でホームヘルプにガイド、夢のまた夢であったホーム可動柵…、我が身と同じく振り返ってみると小さくてもいくつもの実や花をつけて来ているのに気がつく。
さて、これからの10年は ? その重みはいまだ仲間たちの知り得ない時空間となろう。
飛べたはずの水たまりがなぜ ? 会話のそこいらに「あのー、それ、あいつが…」なんてね。
蓄えた知恵や経験に相反する負の成長とのせめぎ合いという新たな課題もある。
当たり前としてきたことが、ありがたいことになる。
しかし、こぶし500号の頃は一体 ? と夢見る心、「…すべき」ではなく、「共にやろう」という手をつないで来た仲間の「ぬくもり」を感じる熱いハートさえ持ち続けるなら、楽しいセカンドライフが待っている。
突き上げてきた「握り拳」の行く末に咲く「こぶしの花」は実はそんな旅の道連れの息づかいの中に咲いているのかもしれない。みなさんの熱い思いをお待ちしています。
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